今回は堺市にある「アルフォンス・ミュシャ館」の楽しみ方を紹介します。
この館は、ミュシャの有力コレクターであった故土井君雄のコレクションの寄贈を受け、ミュシャだけを展示している1994年に建てられた「世界に誇るきらりと光る美術館」です。
現在は、ミュシャ(1860~1939)の「生涯と作品(7月14日~10月8日)」というテーマで、5つのジャンルに沿って作品が展示されています。
商業広告デザイナーとしてのミュシャの出発から、有名なアール・ヌーヴォー(新しい芸術)の演劇ポスター、志をもって祖国チェコに帰国し、その地で画家として活動した作品が眩いほどに86点が展示されています。
同時に3Fには、与謝野晶子文芸館も併設されています。
ここでの楽しみ方は、ひたすら「ミュシャ」を味わうことにつきます!
そのほかの楽しみ方はなにもありません。レストランもコンサートもありません。
ミュシャ、ミュシャ、ミュシャ、ミュシャの世界だけです。
それがいいのです。
19世紀末パリの煌びやかなパリの空気を十分に感じることができます。
そうして、この美術館を作った「ミュシャと息子のジリ、土居君雄」の情熱を
感じることができる、熱い館です。
それでは、展示の沿ってミュシャの軌跡をたどります。
(なお、絵や写真はクリックすると大きくなります)
その1 商業広告デザイン
当時、経済の発展とそれに伴う宣伝の必要性とカラーリトグラフ技術の進歩で、素晴らしいデザインのポスターが大量生産できる時代になりました。
そのような背景の中で、ミュシャは華々しく登場してきたのです。
左の絵ポスターは、ミュシャがアールヌーヴォーの旗手として活躍していた全盛期の「紙巻タバコ用紙(JOB社)(1897年)」のポスターです。
艶やかでうっとりしている女性の表情と植物の根ような巻き髪。そうして右手に持つ煙草と天女の羽衣のような煙。
百年の月日が経った今でも、古いとは思いません。生きているような髪と煙の形には新しささえ感じます。
煙草の魅力を十分に宣伝する力と芸術作品としての美しさとを兼ね備えた作品です。
その2)挿入画家の時代
1888年パリに出てきた異邦人であったミュシャは、最初、雑誌の挿入絵の仕事をして生計を支えています。
そうして次第にその才能を認められ、大手出版社の挿絵挿入画家となります。
1894年ジュディット・ゴーティエの児童文学「白い像の伝説」の挿入画で名声を獲得します。
そこには、インドやタイを舞台とした東洋的なエキゾティックな絵がかかれており、
今回は、1893年に作成した「白い像の伝説」のイラスト(水彩)6点が展示されています。
当時のヨーロッパ人の東洋への憧れを感じることができる作品です。
その3)演劇ポスターの時代
ミュシャは劇場に行くための衣装を借り、1月の公演に間に合わせるために、たった1週間でこの作品を完成させました。それが有名な右図の「ジスモンダ(1895年)」です。
発注したサラ自身も非常にミュシャの才能を気に入り全部で7点のポスター依頼をし、この「ジスモンタ」で49歳であったサラは演劇界に君臨することができました。
街ではこのポスターの盗難があいつぎ、ミュシャは一躍時代の人となったのです。
上下に飾り文字を配置し、斜めにビザンチン風の衣装をまとわせ、頭には花冠をかぶった堂々たる美しい女性を配置したミュシャ独自の構図をここで完成させています。
私は、この作品に最初に出会ったとき、サラが何かを見つめているその目に釘付けとなりました。なにかを見つめている目ほど魅力を持っているものはありません。
当時のパリの人がこのポスターを盗んだ気持ちも、わかるような気がします。
私が尊敬している故中村天風先生が若き日に50代であったサラのパリの自宅にお世話になります。当時、27~8歳しか見えなかったと天風先生の本には書いてあります。
「お若いですな」というと「女優には年はありません」とにっこり、微笑んで答えたサラに、「この人の美しさと粋なしゃべり方に魅せられた」とあります。本当に魅力的な人であったのでしょう。
その後、天風先生は、サラから「カントの自叙伝」を読むようにとのすすめで、人生が変わっていきます。
ミュシャとサラの出会もそうであるように、不思議な運命的な出会いが人生にはあるのですね。
その4)アールヌーボーの時代
そのための基本的なデザインを「装飾資料集」として作成します。現在でもデザイン画として価値がある大変貴重なものです。
今回の展示では、「装飾資料集」やその習作、飾りサラ、有名なブロンズ彫刻の「ラ・ナチュール-ミュシャの息子のジリが土井君雄に依頼して購入させた」等が展示されています。
右図は飾り皿の「つた(1902年)」です。金属皿にプリントされたもので、今回は2皿展示されています。
その5)ミュシャからムハ(チェコ語の発音)へ
1908年アメリカのドイツ劇場から依頼された作品が「ハーモニー」です。
しかしながら、横4mの大作「ハーモニー」は受け入れを拒否されました。
アールヌーヴォーのミュシャをみんなは期待していたのです。
チェコ人としてのムハはスラブの神話的世界を画いたのです。
その後、75年間行方不明であったこの「ハーモニー」がシカゴで発見され、
ムハの息子のジリが土井君雄の情熱に動かされて、日本へ送付します。
今この「ハーモニー」が日本に展示されているのです。
アールヌーヴォーのミュシャとはまったく異なる作品であるために、
私も混乱しました。これがあのミュシャなのか!
1910年、50歳のミュシャは、アメリカから家族とともに故郷チェコへ帰国します。
「祖国と民族にために人として、芸術家として役に立ちたい」という考えで、
18年の年月をかけて、まったくアールヌーヴォ-とは異なった絵画手法で、
すなわち「ハーモニー」と同じ手法で、
スラブ民族の2000年の壮大な歴史超大作「スラブ叙事詩」20作品を完成させ、チェコに寄贈します。
先日テレビでこの絵を見る機会がありました。
今見ると、涙が止まらないほどすばらしいの作品です。
しかし、当時のチェコはナチスドイツに占領され、まったく評価はされませんでした。
ムハ本人も投獄され、そのために1939年なくなりました。
第2次大戦後、チェコは独立をしますが共産国として旧ソ連に占領され、
ムハの作品は同じように評価をされませんでした。
さらに、現代アートの盛んな今日において最近まで、「スラブ叙事詩」はまったく評価されませんでした。
近年やっと世界の人からこの作品は評価されつつあります。
現在は、チェコのモラフスキーのクルムロフ古城に展示されています。
皆さんも、東欧に行かれたら、この「スラブ叙事詩」に出会いませんか。
きっと、ムハやジリが喜んでくれると思います。
ムハの最後の言葉として
「人類の進歩は気温のグラフのように曲がりくねり上がってまた下がる。
道は遠い・・・しかし長い眼で見れば結局上がるのだ!」
この美術館は、「ムハとジリ そして土井君雄」の情熱が作った美術館です!
□ アルフォンス・ミュシャ館へのアクセス:JR阪南線 堺駅 徒歩3分
合掌 山さん
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