2010年9月30日木曜日

タイムマネジメントの基本的な考え方

タイムマネジメントを行うときにまず考えなければならないことが3つあります。


まず、第1番目はタスク(仕事などするべきこと)を効率化をするということです。短時間でアウトプットをするというテクニックの問題です。これがタイムマネジメントの基本となります。

しかしながら、多くの達人たちがいろいろな効率化のスキルを紹介していますが、それは達人たちの人生の中から生まれてきたもので、人生の土台が異なる他人がそのままそれをまねしてもうまくいきません。自分なりに努力してぴったりのものを探し実践して自分にあうkどうか確認することが必要です。

第2番目は、いかに多くのタスクの中から「やるべきことを絞り込んで」タスクの量を減らすかということです。

変化の時代には、次から次へとするべきことが出てきます。どんなに効率化してもそこには限界があります。それを全部こなすと自分自身がつぶれてしまいます。残念ながら到底すべてを全部処理することはできません。 諦めが必要です。

そのためには、2つの方法があります。

まず、自分の中に原理・原則をもってタスクを選択していくという姿勢が重要です。変化が多いほど、急激なほど頼るべき基準としての原理・原則が必要です。

次に、自分にとっての大切なもの(価値観)にしたがってタスクを選択していくということです。そうすることで、自分への動機付けを向上しながらタスクを処理していくことができます。

有名な「二人の石工」の話がありますが、自分のタスクを単なる処理すべきことと認識して取り組むのと、人々が祈りをささげる教会をつくることに自分は貢献していると自覚してタスクを処理するのではモチベーションが異なり、仕事の結果と満足は雲泥の差がでてきます。

第3番目は、タイムマネジメントは、自分の行動管理であるということです。直接、時間を止めたり、戻ったりコントロールすることはできません。もちろん時の流れるままに生きていくのも「OK」ですが、私は、自分らしい人生を築くためには、意識して自分の行動をうまくコントロールすることが重要なことだと考えています。

これらの具体的な方法は後日考えます。


次回から、具体的なタイムマネジメントのスキルである「スケジューリング」について考えていきます。時間を見える化=自分の行動を見える化することから説明をします。

2010年2月14日日曜日

絵画の庭-町田久美の木馬

現在大阪国際美術館(~2010年4月4日まで)で開催されている「絵画の庭-ゼロ年代日本の地平から」を見に行きました。

現在活躍している日本人の28名のアーティストに焦点を当て、約200点が美術館のB2・B3を使ってゆったりと展示されています。

それぞれの作品が個性的で楽しんで見ることができます。

が、なにか軽い感じがしてなりません。心にぐさりと突き刺さるモノがないです。

これが現在日本を表現しているものだと時代の雰囲気を感じつつ、私のお薦めの作品は町田久美の「木馬」(左図)です。

縦140cmX横113cmの大きさの作品ですが、最初見たときは聖母子像のように見えたのです。聖母マリアの肩に幼子イエスが肩車され、慈愛にあふれた二人の表情に惹かれました。

しかし、近づいてみるとなにか違うものが感じられるのです。
まず、肩車されている子供のような人間の両目から、涙があふれ出ているのです。その涙は、硬くてべっとりとした、まるで竹を縦に切り裂いたのような表現で、肩車した人間の顔を滑り落ちています。

この涙はなんなのでしょうか?
私は妄想を広げてみました。

もし神の子イエスと解釈すれば、自分の運命を知ったその涙なのかもしれないと。

更に見ていくと、塗り重ねた太い線でやわらかい肌と肌の触れ合いを見事に表現し、微笑ましいエネルギーがでています。

しかし、タイトルは「木馬」のなです。肩車している人間は木なのでしょうか?

また、じっくりと目をみると、お互いの目線はあっていないのです。
見つめ合っていないことに私は驚きました。
微妙にお互いの目線が異なっています。

私たちは、2つの矛盾するものが目の前にあると不安になります。

作品全体からかもちだすやわらかさ、親密さ。
一方詳細に作品をみると、異なる目線、涙、木馬と言う非人間的タイトル。

この作品は見ているものを不安に誘います。
不安のままでは苦しいので、この不安をなんとか解釈し、解消しようとします。
そのために、自分の想像力を駆使して自分の都合のいいように解釈せざる
を得ないように追い込みます。

町田の作品は、この微妙なアンバランスを作品を通じて私たちに突きつけ、
そして、私たちの想像力に火をつけます。

合掌 山さん

2010年1月30日土曜日

THE ハプスプルク展(京都国立博物館)

 現在京都で開催されている「THE ハプスブルグ展」に行ってまいりました。最初の目的は、有名なエリザベートの絵(左図)を見ることでした。以前ミュージカルにもなった「エリザベート」をみることは楽しみのひとつでした。

 展示をみてみると、巨匠といわれる画家達の作品が数多く展示してありました。が、どうも私の心を響かす「なにか」を感じることが出来ません。

 どうしてでしょうか? 

 おそらくハクスブルグ家の収集家達のアート
に関する価値観と私の価値観が異なっているのでしょう。貴族の好きな絵画と私の好きな絵画は大きく異なっているのでしょう。

 特に肖像画は自己顕示欲のオーラがあり、楽しめることが出来ませんでした。エリザベートの美しさは言うまでもありませんし、その画家(
フランツ・クサファー・ヴィンターハルター)の表現力も見事です。でも、それだけで、見ているものの心に響くものがないのです。

 その中にも、きらりと光る2作品に出会いました。

 イタリアルネサンス期のジョルジョーネの「矢を持った少年」のうつろな心を表現している力量は見事ですね。

 次に注目したのはエル・グレコの「受胎告知(ブタベスト国立西洋美術館)」です。すごい作品と言うよりは、わたしにとって安心できる作品です。

 2年前に、レオナルドの「受胎告知」を見ましたが、大天使ガブリエルのマリヤに対して発せられる光(恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。)とそれに応じるマリヤの視線(どうして、そんな事がありえましょうか。私はまだ夫がありませんのに。)が真っ直ぐぶつかり合っているすさまじい緊張感のある作品でした。


おそらくこの葛藤をレオナルドは表現したのでしょう。


それに比べてグレコの作品は、安らぎがあるのです。
それは、ガブリエルがマリヤに「聖霊があなたに臨み、いと高き者があなたをおおうでしょう。

 
それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、なられるでしょう。」と言い、それに対してマリヤは「私は主のはしため(サーバント)です。お言葉どおりこの身に成りますように。」と返事をしました。

 このことをグレコは見事に表現しています。そこで表現されているのは、天使の言うことに葛藤がありながらも受け入れたマリヤの安堵感と覚悟ではないでしょうか。

 この作品から発せられる安らぎはここにその理由があるかもしれません。


そのようなことを考える中、たしかこの絵は「大原美術館」にあったのではということを思い出しました。そこでいろいろと調べてみました。

そうするとざくざくとグレコの「受胎告知」がでてきたのです。

取り合えず、5作品を並べてみました。

一番上は今回展示されている作品で現在ブタペスト国立西洋美術館にあるものです。


2番目は、日本人になじみのある
大原美術館の「受胎告知」です。上の作品に比べて、よく見ると、微妙に違いがあります。

大原美術館の作品は、色が深く、聖霊を表す「はと」の後ろの光が大きいことが特徴です。
また、後日追加された光輪があります。
インパクトのある作品となっています。


なお、この作品は息子や助手が作成したと言う話もあります。

 3番目はサンパウロ美術館にある「受胎告知」です。大原美術館と同じものですが、マリヤの顔がなんとなく「違うなあ?」と思います。

4番目は、アメリカのトレド美術館にあるものです。ブタペスト美術館のものと似ていますが、マリヤの横に柱のようなものがあります。

最後は、スペインのプラド美術館にある「受胎告知(315cmx315cm)」です。この作品は、非常に大きく、マリアが立っており、ガブリエルは両手を胸にあて、天上界で天使達が楽器を奏でていす。全体的に迫力がある作品です。

一つのモチーフであっても多くの作品があるものです。それぞれにおもしろい物語があるのでしょうか。

グレコのいろいろな「受胎告知」は下記のURLをクリックしてください。

http://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Annunciation_by_El_Greco






合掌 山さん

2009年5月9日土曜日

聖母マリア カトリック芦屋教会



 前回の国立西洋美術館の野外彫刻はすごい作品ですが、精神的に疲れます。


 今回は私が住んでいる芦屋の教会のマリア様を紹介します。阪神芦屋駅から歩いて2分ほどの芦屋川の辺にこの像はあります。教会の中にに入らなくても外にあるのでいつでも見ることができます。


 手を合わせる姿=祈る姿は仏像にも多くありますが、人間の聖なる形なのでしょうか。


 このマリア様には安らぎに溢れています。見ている私の心も癒されます。


 厳しい世の中ではありますが、私達の心の中に癒しの場が必要ではないでしょうか。それが明日への力となります。


合掌 山さん






2009年5月3日日曜日

国立西洋美術館 野外彫刻

国立西洋美術館の野外彫刻は、世界最高峰のロダンとブルーデルの作品を無料でしかも自由に鑑賞することができます。これらの彫刻作品を収集した松方幸次郎(1865~1950)の眼力の凄さと情熱にはただ頭が下がるばかりです。
では早速鑑賞しましょう 。(写真をクリツクすると拡大画が表示されます。)

1)オーギュスト・ロダンの代表作「考える人(1880年)」の拡大作(1902~4年)です。

 美術館の右側に設置されている「地獄の門」の中心にこの彫刻の原型があります。地獄の門が動勢(ムーブマン)表現の集大成ですが、その中で唯一、静の表現がこの「考える人」です。
 
 ロダンは「筋肉の動きで内面の気持ちを表現している」と話しているように、太い両手、大きな両足のそれぞれの筋肉は力強く、見る側へ迫ってきます。更に、右手が斜めに肘をついている構図が魅力的です。人間の普遍的な特徴である「考える」を見事に表現しています。

 さて、地獄の門を上から覗き、苦悩している人間を見ながら「考える人」はいったい何を考えているのでしょうか?


2)ロダン作「カレーの市民(1884~1888年製作)」の中からジャン・デール(右)とユシュターシュ・ド・サン=ピエール(左)の像です。 

 自らの命を投げ出し、カレーの町を救ったのが、伝説的英雄6人の男達でした。その題材を、ロダンは英雄達の像ではなく、1人の人間としてその存在を魂のレベルまで掘り下げて表現しています。
 ロダンは「カレーの市民」について次のように話しています(岩波文庫 ロダンの言葉より)。


 「私は彼らをむやみと崇め祀るようには群列せしめなかった。彼らの義勇のそうした頌讃をしたところで少しも現実に合わないに相違なかったからです。


かえって私は彼らを1人ずつぼつぼつと置きました。なぜかといえば、彼らの市に対する献身と彼らの死への恐怖との間に闘わされる内心の最後の苦闘の不安定の中で、彼らの一人一人は自分の良心の前にほとんど孤立しているからです。


 彼らはまた自分たちに極度の犠牲を成熟する力があるかどうかを知ろうとして自問しています。彼らは魂は彼らを前に押しやり彼らの足は歩むことを拒んでいます。彼らは痛ましく足を引きずってゆきます。食料不足が彼らを弱らせた衰弱の故もあるし、刑罰の恐怖の故もあります。そして確かに、もし私がいかに肉体が、最も残酷な苦痛にやせ衰えていながらも、まだ生命にかじりつくかを示し、いかにしてそれが勇気に満ちた魂の上にもまだ妨げをなすかを示すことに成功したとすれば、私は自分が取り扱わねばならなかった高貴な題目以下に止まっていなかったのを喜びます。」


 見事に人間の内面の葛藤を表現した作品でも、残念ながら当時の官辺の人には受け入れられませんでした。ロダンは言います。

 道行く人がこの作品を見て、「われわれの祖先(カレーの市民)はわれわれの隣人でわれわれの模範だ。彼らの例を真似るべき日がもしきたら、われわれといえども彼らの徳から廃頽しなかったことを示さねばならぬ」と思うでしょう。


 私はこの作品に出会うたびに、「献身、死、恐怖、魂の高貴さ、良心、苦痛、勇気」の複雑な人生の連立方程式について考えさせられ、私の中にあるいくつかの感情がシンクロして騒ぎ立てます。


3)アントワーヌ・ブルーデルの「弓を引く人(1909年製作)」です。 

ギリシャ神話の中のヘラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射ようとしている姿を作品としています。人間が持っている力強さを実にうまく表現しています。

 ロダンが筋肉の表現で人間の内面性をあらわしているのにたいして、ブルーデルは、全体の形(構成)で力強さを表現しています。


 それはロダンの感情をもった人間表現といものから、ブルーデルは普遍的・抽象的な人間という概念表現に移行しています。
 
 二人の巨匠の表現方法の違いを、ここ西洋美術館では見ることができます。


4)ロダンが生涯をかけて製作し続けた作品「地獄の門(1880~1917年)」です。


ロダンの死後、ブロンズに鋳造されました。高さ5.4m、幅3.9m、重さ7トンの大作です。 

 ダンテの有名な銘文「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とあるようにロダンはこの「地獄への門」を37年間かけて動勢(ムーブマン)表現の奮闘記録として製作しています。すべてのロダンの努力の集大成がこの作品です。
 
 製作のきっかけは、「青銅時代」の実物石膏取り問題を払拭するための作品だったようですが、その後ロダンの一生をかけての大作となりました。

 門全体がうごめく人間の塊です。全体のうごめきの中で、200以上の人物が表現され、ぞれぞれの人間もうごめいて、原罪にまみれた地獄の様子を表現しています。この門からは地獄の声が聞こえてきそうです。

5)ロダンの「アダム(1880年頃)」という作品です。
「地獄の門」に向かって左に設置されています。
 
 力強い肉体にもかかわらず、自分が犯した原罪でで苦悩で身をよじっている人類の祖アダム。
 ミケランジェロの最後の審判のように右手の人差し指で地面を指し示し、頭をたれているその姿は、見ていて悩ましい限りです。 
 これは、力があるにも関わらず原罪に打ち震える私達人間の側面かもしれません。
合掌 山さん

2008年12月15日月曜日

大阪西梅田周辺の野外彫刻

JR大阪駅の前にはモダンな超高層ビルが林立するようになりました。そのビルと調和するように野外彫刻作品が展示されています。

 たとえば、ジャンポール・オーベのような伝統的な具象彫刻からケネス・スネルセンのような抽象作品までバラエティに富んでいます。

 特に、谷山恭子と松永真の両アーティストの作品が高層ビルを囲むように展示されているのは見ものです。ビルを見上げながら彫刻作品との調和を楽しむことが出来ます。

1)ジャンポール・オーべ Flower Fairy


フランスの彫刻家ジャンポール・オーべ (Jean- Paul Aube 1837~1916)の「 Flower Fairy(花の妖精)」という作品です。 

 ザ・リッツ・カールトンホテルの駐車場入口の緑の木々の中にこの妖精はいます。 実に気品に満ちた美しい姿です。古典的な美とはこのような作品をいうのでしょうか。「美に見せられる」 そのようなエネルギーえを持っています。

 妖精は手に花を抱え、つま先立ちをしている姿は優雅そのものです。 周りの緑にマッチした正統派の彫刻作品です。

 山さんお薦めの一見の価値がある作品です。

2)堀口泰造   カルメン


堀口泰造 (ほりぐち たいぞう 1993~  )の「カルメン(1970年製作)」という作品です。新サンケイビルの入口ホールに設置されています。
 
 体全体からあふれ出ているエネルギーを感じます。フラメンコの情熱的な踊りが迫ってきます。カスタネットとフラメンコギターの音がこの作品から聞こえています。

 ついつい「オーレ」と叫びたくなりました。




3)鈴木政夫 花の二人



石を叩きつづけてきた彫刻家鈴木政夫(すずき まさお 1919~2002 )の「花の二人」という作品です。

  温かいぬくもりのなかに二人の人間の愛とそのエネルギーを感じます。ジワ~と心を揺さぶられる作品です。

  鈴木の言葉に「これらの石仏群の大半(道祖神)が,今も庶民の生活の中で生きて祭られており,部落のシンボルの役目を果たしている。彫刻的感動以前の,人間本来の「いのち」の感動を放っている。」私は,しっかりと風土に根ざしたこれらの石仏群に感動し,身を震わしたのであった。

 まさしくこの作品は「いのち」の感動を持っています。手を合わせたくなる人間の根源的な面を表現している作品です。

その他の作品は「 アートを楽しむ山さんの美術散歩 」を参照ください。

合掌 山さん


2008年12月4日木曜日

大阪市中之島緑地とその周辺の野外彫刻


  地下鉄の御堂筋線淀屋橋駅で下車すると、そこには中之島緑道と明治24年(1891年)に大阪市で初めて誕生した中之島公園のがあります。

  堂島川と土佐掘川の真ん中にある約1.5kmにおよぶの緑色のベルト地帯です。公共施設や美術館とがあり文化豊かなところです。


特に中之島緑道は400mにわたり10体の彫刻と緑豊かな花々があります。その周辺には、ブルーデルの作品や日本を代表する彫刻家の作品が設置されています。12月の夜には中之島公園一帯には光のイルミネーションがなされます。(上図をクリツクすると拡大)
 彫刻もライトアップされているので、ちょっと寒いですが、12月の夜に見に行かれることをお薦めしまします。

1)トム(トーマス)・ シャノン Hi_Phi

 関西電力本社ビルの入り口にあるトム・シャノン(Thomas SHANNON 1947~ )の「Hi_Phi(ステンレス 2004年製作)」という作品です。


 この3つの物体はなんだろうかといろいろ調べてみました。するとこの作品はこの企業の経営理念の一つである「成長する力」を表現しているとのことでした。


  また、3つの大きさは、「1:1.618」からなる最も美しい黄金比率で出来ています。そうして、最初の玉が「安定」、真ん中が「成長」、最後が「力強さ」を表しているのでしょうか。そのように考えてみると納得は出来ますが・・・・・・・ 。


 Hi_Phi(ハイファイ)の意味は「原音や原画に忠実な再現」ということなので、成長していくさまの本質を表現しているのでしょう。実に不思議な物体が、空間に浮かんでいるように思えます。


2) 天野裕夫 十魚架

天野裕夫 (あまの ひろお 1954年~ )の「十魚架(1989年設置)」という作品です。


 十字架ではなくて、十魚架とは。その想像力に脱帽です。大きな足、それに垂直に立っている人。その体を水平に貫いている魚。独自の世界を持っています。


 天野は「30年も作っているとこうすればこうなると頭の中で考えるようになる、しかし、頭でイメージして作れることは割合限られている。自分の手を信じている。


 手が作っていくということを信じてやっている」と話しています。 おそらく手が作っていくとは、頭でいろいろと考えるだけではなく、無意識の手の動きに任せるということなのでしょうか。


  創造性は無意識の働きが大きいと天野の作品を見ながら気づきました。

3)斉藤均 It blows(風標)


斉藤均 (さいとう ひとし 1948年 ~  )の「 風標(1989年設置)」という作品です。


  ステンレスの角材を丹念に積み上げた作品で、斉藤によるとIt blowsということで、「風が吹いてきたよ」ということだそうです。 


 その風はどんな風なのでしょうか。 私は緩やかな風を感じます。微妙に感じるさわやかな風です。都会の真ん中の気持ちの良い風です。


 斉藤のHPではIt blowsの多くの作品をインターネットで見ることが出来ます。お薦めのページです。 




残りの作品は「アートを楽しむ山さんの美術散歩」で楽しんでください。

合掌 山さん