
では早速鑑賞しましょう 。(写真をクリツクすると拡大画が表示されます。)
1)オーギュスト・ロダンの代表作「考える人(1880年)」の拡大作(1902~4年)です。
美術館の右側に設置されている「地獄の門」の中心にこの彫刻の原型があります。地獄の門が動勢(ムーブマン)表現の集大成ですが、その中で唯一、静の表現がこの「考える人」です。
ロダンは「筋肉の動きで内面の気持ちを表現している」と話しているように、太い両手、大きな両足のそれぞれの筋肉は力強く、見る側へ迫ってきます。更に、右手が斜めに肘をついている構図が魅力的です。人間の普遍的な特徴である「考える」を見事に表現しています。
さて、地獄の門を上から覗き、苦悩している人間を見ながら「考える人」はいったい何を考えているのでしょうか?
自らの命を投げ出し、カレーの町を救ったのが、伝説的英雄6人の男達でした。その題材を、ロダンは英雄達の像ではなく、1人の人間としてその存在を魂のレベルまで掘り下げて表現しています。
道行く人がこの作品を見て、「われわれの祖先(カレーの市民)はわれわれの隣人でわれわれの模範だ。彼らの例を真似るべき日がもしきたら、われわれといえども彼らの徳から廃頽しなかったことを示さねばならぬ」と思うでしょう。
ロダンは「カレーの市民」について次のように話しています(岩波文庫 ロダンの言葉より)。
「私は彼らをむやみと崇め祀るようには群列せしめなかった。彼らの義勇のそうした頌讃をしたところで少しも現実に合わないに相違なかったからです。
見事に人間の内面の葛藤を表現した作品でも、残念ながら当時の官辺の人には受け入れられませんでした。ロダンは言います。
「私は彼らをむやみと崇め祀るようには群列せしめなかった。彼らの義勇のそうした頌讃をしたところで少しも現実に合わないに相違なかったからです。
かえって私は彼らを1人ずつぼつぼつと置きました。なぜかといえば、彼らの市に対する献身と彼らの死への恐怖との間に闘わされる内心の最後の苦闘の不安定の中で、彼らの一人一人は自分の良心の前にほとんど孤立しているからです。
彼らはまた自分たちに極度の犠牲を成熟する力があるかどうかを知ろうとして自問しています。彼らは魂は彼らを前に押しやり彼らの足は歩むことを拒んでいます。彼らは痛ましく足を引きずってゆきます。食料不足が彼らを弱らせた衰弱の故もあるし、刑罰の恐怖の故もあります。そして確かに、もし私がいかに肉体が、最も残酷な苦痛にやせ衰えていながらも、まだ生命にかじりつくかを示し、いかにしてそれが勇気に満ちた魂の上にもまだ妨げをなすかを示すことに成功したとすれば、私は自分が取り扱わねばならなかった高貴な題目以下に止まっていなかったのを喜びます。」
見事に人間の内面の葛藤を表現した作品でも、残念ながら当時の官辺の人には受け入れられませんでした。ロダンは言います。
道行く人がこの作品を見て、「われわれの祖先(カレーの市民)はわれわれの隣人でわれわれの模範だ。彼らの例を真似るべき日がもしきたら、われわれといえども彼らの徳から廃頽しなかったことを示さねばならぬ」と思うでしょう。
私はこの作品に出会うたびに、「献身、死、恐怖、魂の高貴さ、良心、苦痛、勇気」の複雑な人生の連立方程式について考えさせられ、私の中にあるいくつかの感情がシンクロして騒ぎ立てます。
ギリシャ神話の中のヘラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射ようとしている姿を作品としています。人間が持っている力強さを実にうまく表現しています。
それはロダンの感情をもった人間表現といものから、ブルーデルは普遍的・抽象的な人間という概念表現に移行しています。
二人の巨匠の表現方法の違いを、ここ西洋美術館では見ることができます。
ロダンが筋肉の表現で人間の内面性をあらわしているのにたいして、ブルーデルは、全体の形(構成)で力強さを表現しています。
それはロダンの感情をもった人間表現といものから、ブルーデルは普遍的・抽象的な人間という概念表現に移行しています。
二人の巨匠の表現方法の違いを、ここ西洋美術館では見ることができます。
ロダンの死後、ブロンズに鋳造されました。高さ5.4m、幅3.9m、重さ7トンの大作です。
ダンテの有名な銘文「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」とあるようにロダンはこの「地獄への門」を37年間かけて動勢(ムーブマン)表現の奮闘記録として製作しています。すべてのロダンの努力の集大成がこの作品です。
製作のきっかけは、「青銅時代」の実物石膏取り問題を払拭するための作品だったようですが、その後ロダンの一生をかけての大作となりました。
製作のきっかけは、「青銅時代」の実物石膏取り問題を払拭するための作品だったようですが、その後ロダンの一生をかけての大作となりました。
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